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「吹いて(ふいて)奏でる(かなでる)音楽」文字通りの、「吹奏楽」ですが、音楽を齧ったことのない私からすると、大勢で集まって演奏しているものだったり、何かのパレードだったり、試合のが始まる前のイベントの一つとして、ぷっぷぷぷーー♪と演奏しながら行進しているマーチングも吹奏楽?!とかなり広範囲なものをイメージしてしまいます。警察や消防の音楽隊も、旗を振りながら行進するお姉さんたちと一緒に、演奏しながらパレードしていますよね。高校生が楽しそうに、踊りながら演奏したりするものもありますよね。

多くの国では、軍隊や消防や警察など公的な機関に属する楽団が中心のようですが、日本とアメリカでは学校などのアマチュア吹奏楽団が圧倒的に多いそうなんです。中学や高校でも吹奏楽部があるのが当たり前ですよね?文化祭で演奏なんて光景が見られますが、どんな曲が好まれて演奏されているのでしょう~ 音楽を齧ったことがない私でも「この曲聞いたことあるな。」とあんがい子供の頃から親しんでいるだけに、どんな曲が演奏されているのか気になり始めました。

王宮の花火の音楽(Music for the Royal Fireworks)作曲:ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(HWV351)

1685年ドイツに生まれた作曲家ですが、生涯の約3分の2をイギリスで過ごしていたので、圧倒的にイギリスでの活動歴が長い(正式にイギリスに帰化している)のでイギリスの作曲家として扱うべきという意見もあります。実際にイギリスでは英語名でジョージ・フリデリック・ハンデルと呼ばれています。この曲は1748年にオーストリア継承戦争終結のために開かれたアーヘンの和議を祝う祝典のための曲で、祝典自体はロンドンのグリーンパークで1749年に催されました。

1749年4月に、戦争の終結を祝って、花火大会が催されることになりました。宮廷作曲家であるヘンデルは、その際演奏する曲の作曲を命じられたため、3月末頃には曲が完成したようです。4月17日にヘンデルの自宅でリハーサルが行われ、さらにヘンデルの意志に逆らって、4月24日に公開リハーサルが行われました。このリハーサルには12,000人もの人が集まったと伝えられています。そのため道路は渋滞し、ロンドン・ブリッジは3時間にわたって、通行不能に陥ったともいわれています。祝典の当日、4月27日の本番の日は、途中から雨が降り出し、花火大会はさんざんな結果に終わったといわれています。この際に演奏された作品、「王宮の花火の音楽」は、ヘンデル自筆譜が残されているので、その編成も正確に分かっています。

第1オーボエ12,第2オーボエ8,第3オーボエ4、第1ファゴット8,第2ファゴット4,3パートのホルン各3,同じく3パートのトランペット各3、ティンパニで,弦楽合奏とコントラ・ファゴットの数は示されていません。初演に際してイギリス王ジョージ2世の意向で、勇壮な響きを出すため管楽器と打楽器のみが使われましたが、ヘンデルの手稿には弦楽器パートがあるので、実際の演奏には、弦楽器も参加した可能性があります。現在ではその版も広く演奏されています。

オーストリア継承戦争終結を祝う式典となったオーストリア継承戦争とはいったいなんでしょうか。1740年~1748年に行われました。主要参戦国は、ハプスブルク側:オーストリア、イギリス 反ハプスブルク:バイエルン、プロイセン、フランス ヨーロッパの主要国を巻き込み、カナダやインドで英仏間の戦争にも発展していきました。

神聖ローマ帝国皇帝カール6世は男子に恵まれずに、長年後継者に悩んでいました。そこで長女のマリア・テレジアに家領であるオーストリアを継がせるために、女子の相続を認める国事勅書を発布して、フランスなどの欧州主要国にみとめさせたのですが、ルイ15世のフランス宮廷がハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会とばかりに、バイエルン・スペイン・プロイセン・フランスなどが言いがかりをつけて起こした戦争です。ヘンデルが住んでいるイギリスはオーストリア支援に回ったものの、苦戦を強いられました。戦況は、オーストリア側が不利でしたが、イギリスがフランスとの対立からオーストリア側に立って参戦したことによって戦局が転換することとなりました。マリア・テレジアはハンガリーの協力を引き出すことに成功し、バイエルン・フランス連合軍を破ります。1743年にはバイエルンを逆に占領することになりました。イギリス軍の支援もあって、1744年にはフランス領アルザスに侵攻します。プロイセンは、オーストリアに脅威を感じ再度同盟を結び、ボヘミアへと侵攻します(第二次シュレジェン戦争。1744年~1745年)。一時はプラハを占領したプロイセン軍も、オーストリアの反撃によって押し戻されこととなりました。

1745年にバイエルン側の皇帝カール七世が没したことでバイエルンが戦争から離脱(フュッセンの和約)、マリア・テレジアの夫フランツ一世が皇帝に選ばれ帝位はハプスブルク家へと戻ってきた。プロイセンはシュレジェンの確保と引き換えにフランツの帝位とマリア・テレジアによる相続を認めました(ドレスデンの和約)。主に英仏間で戦争は続きましたが、1748年10月18日のアーヘンの和約で終結しました。

こんな背景の中、王宮の花火が演奏されたんです。

ヘンデルは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハと同じ1685年、現ザクセン=アンハルト州(当時プロイセン領)のハレに生まれました。ヘンデルが生まれた時、母は34歳、父は63歳の高齢ということもあり、小さい頃から音楽の非凡な才能を占めていましたが、音楽家の社会的地位が低く収入も不安定という理由から、息子が音楽の道へ進むことに猛反対していました。父親は息子の将来については社会的地位の高い法律家への進路を強く希望していた。しかし、幸いにも当時のハレの領主がヘンデルの音楽の才能を気に入り、ヘンデルは領主の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたといわれています。(バッハは、先祖代々音楽家の家庭に生まれ、生まれた時から音楽家になるべくして育てられていたので、対照的な境遇だったといえます)。音楽の勉強を続けながらも、ヘンデルは厳格な父の期待に従うべく、ハレ大学で法律を学びましたが、やはり音楽への情熱を断ち切れずハンブルクへ出てオペラで成功しました。(この頃には彼の父は既に死去しており、彼は自由の身になっていたことも理由の一つです)ヘンデルはバッハと違い先祖代々音楽家の家庭ではないため、活動の場を自力で開拓しなくてはいけなかったことも、国際的な活躍に繋がったのではないでしょうか。ヘンデルはバッハと並び、バロック期を代表する重要な作曲家の一人です。